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2011年5月26日木曜日

世田谷区・地図(昭和24年頃)を航空写真と比較すると

世田谷区 地図情報

 下北沢エリアを中心とした世田谷区の古い地図を探していますが、年代が特定されている地図となると探すのが難しいですね。古地図と呼ぶには比較的に新しい昭和初中期のものとなってきます。江戸から明治にかけてとか、明治・大正の頃とか、もっと地図が作成されていても不思議じゃないんですが。地図そのものは最新版を必要とするわけで古い情報の地図は、その当時においては不要なものというか、新しいものに差し替えられると処分されるべきものではあります。

 先日、昭和30年代と思われる地図をみましたが、この地図の年代を確認する際に、昭和24年の新23区制の世田谷区の地図を確認できましたので、年代が把握された地図として紹介しておきます。



 上記の地図が、新23区政当時の世田谷区の地図(昭和24年)ということです。下北沢エリアに着目してみると、現在の環七よりも東側の鎌倉街道にあたる道が、随分と太く記されています。地図を見る限りだと、幹線道路のような幅員があるかのように見受けられます。なんだが不自然な印象です。現在の鎌倉街道は地図に見るような幅員は勿論ないわけですから。また、当時もこんな幅員はなかったものと推測されます。
 したがって、この地図は都市計画とかの計画道路予想を反映したものだったのではないかなと思っています。地図が作成された年代が明らかになっているものの、その地図上に記載された事項は当時の様子を必ずしも反映しているわけでなく、将来の予想図を記載していたものと解釈できます。
 地図というのは、その作成された目的によって内容というか情報が変るものであるといえます。当時の様子をリアルに反映しているものか否かは作成された地図の目的から吟味する必要もあるわけです。年代が特定されても、その地図の作成目的などの意図がハッキリしていないと読み取る情報の内容をミスリードする可能性があるということです。
 よって、昭和24年作成の地図でも、その当時の様子を反映した地図と断定することはできないというわけです。
 というわけで、この地図をどうように検証するかですが、航空写真が公開されていますので、これと比較してみましょう。





 画像は下北沢エリアの地理関係を容易にイメージできるように、小田急線・井の頭線・環状七号線に区切られた三角形のエリアを拡大しています。ちょうど、三角形の頂点付近が井の頭線・新代田駅と、小田急線・世田谷代田駅と、下北沢駅になっています。また、画像に上書きされている文字情報は現在あるものです(その当時には勿論無いものが含まれています)。

 1枚目の画像は、昭和22年頃の様子です。新代田駅と世田谷代田駅の間が弧を描くように線路で結ばれていた跡が見てとれます。当時の日本は、日本国憲法施行、吉田内閣総辞職、片山内閣成立といった時代でした。写真上の濃淡は建物の有無によるものでしょうか。昭和20年の東京大空襲後から2年経過しても、その傷跡があり復興していない様子が見受けられます。
 下北沢駅の南北にある鎌倉通りも確認できますが後に環七となる道の幅員のほうがハッキリと写っています。昭和24年に作成された地図は、この2年後ではありますが、戦後復興の際に幅員のある道路を作ろうという計画があったのかもしれません。

 2枚目の画像は、昭和38年頃の様子です(30年代はじめの写真を確認したかったところですが)。1枚目の画像からは16年経過し、戦時下の引込線路があった様子はこの写真を一目して判別できるようなことがなく、建物なども復興しているのが判ります。当時の日本は、ニセ札防止のため新千円札(伊藤博文の肖像)が発行された時代で、力道山が刺された年でもあったようです(ちなみに、ケネディ大統領が暗殺された年でもあります)。写真上では環七の様子がハッキリとみてとれます。ちょうど、環七が一部開通した頃のようですが、この写真を見る限りでは、わずかながら建物が点在しているように見受けられます。
 下北沢駅付近の様子ですが、南北にある鎌倉通りも確認できます。昭和20年頃よりも少しは幅員が太くなったのではと思われる程度にきちんと確認できます。ただ、昭和24年に作成された地図にあるような道は、この38年の航空写真を見ても確認することは出来ません。

 以上により、推測すると、道路は当初、下北沢駅のあたりを通過する予定だったのではということです。しかし、現実(実際)には、下北沢駅の西側にずれて現在の環七の位置に落ち着いたんだと思います。
 というのも、戦災復興院が昭和20年(1945年)に創設され、都市計画土地区画整理がなされていきますが、昭和24年(1949年)のいわゆるドッジラインによる経済安定政策のあおりで計画は再検討というか大幅な縮小が図られてしまいます。この影響で計画していた道路と実際に出来た道路に齟齬が生じたとか、計画自体が頓挫し、東京オリンピック1964年(昭和39年)の際に急遽、当初予定とは異なる位置に道路が作られたとかの事情があるのではと思っています。
 このあたり、きちんとした文献で確認することが出来なかったのですが、当初の復興計画だと道路幅員なども太くかなり理想的なものだったようです。ただ、実際の復興には予算や費用もあり、理想的な道路を作るよりも妥協して細くても早期に道路を整備すべきといった現実的要請があったのだと思います。そういう戦災復興期に作成された地図なので、その当時に実際にあるものと、計画上これから予定されるものとが混在していたのかもしれません。