下北沢・代田の情報を更新しているサイト

2011年6月25日土曜日

下北沢の歴史や地名など、昔のローカル情報を閲覧できるサイト

下北沢 情報

 「古文書(新編武蔵風土記稿)に探す世田谷区と下北沢の地名

 江戸時代に地誌を編纂した文献に、「新編武蔵風土記稿」があります。

 この文献は、江戸幕府により編纂された地誌で、文化7年(1810年)から、11年もの歳月をかけて、武蔵国各村の明細帳と地誌調書をもとに、これに古記録類などを加味して、作成された貴重な文献です。幕府へは天保元年(1830年)に「新編武蔵風土記稿」として献上されました。正式に幕府より製本されなかったので稿本といった表題がついていますが、これだけの規模と内容を網羅した地誌は他に類をみないため、当時の地名などを知る上で非常に有用かつ貴重な書物といえます。
 このような内容の文献が残っているのは、明治17年(1884年)に内務省地理局が、幕府に献上された浄書稿本の翻刻版を『新編武藏風土記稿』として刊行した為です。このため、その内容を現代でも容易に確認することができます。
 武蔵国は現在の東京都と埼玉県にあたりますので、それなりの広範囲が市町村レベルの詳細で網羅されているため、当時の地名などを確認するのに大変に有用です。

 上記のリンクからは、下北沢を中心とした世田谷区の昔の地名を整理してまとめたものを確認できます。国立公文書館からはデジタルアーカイブによって情報公開もされています。

 また、このほか画像などを公開してるサイトもありますの以下にリンクで紹介します。

 「新編武蔵国風土記稿の挿絵

 文献には文字だけでなく挿絵も含まれています。この挿絵を改めて鮮明に画像処理しているものと思われます。したがって、非常に綺麗に描画された絵図を閲覧できます。

2011年6月24日金曜日

下北沢 地図 情報 昭和22年以降の地図(古地図)

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 世田谷区・下北沢の古い地図(昭和22年以降の昔の地図)

 昭和30年頃の地図と、この当時の地図情報を確認できるサイトなどを紹介しています。昭和22年(1947年)に東京都が23区制を採用し、その後、昭和42年(1962年)頃に住居表示制に移行します。この時が最も地名に変遷がみられる時期となります。よって、この中間の年代、すなわち、昭和30年頃の地図と、現在の地図を比較することが出来れば、概ね、23区制以後と、住居表示制以後の地名の相違を容易に確認することが可能です。

古地図にみる世田谷区と下北沢エリア(昭和22年以降「昭和31年の地図と比較」)その1

古地図にみる世田谷区と下北沢エリア(昭和22年以降「昭和31年の地図と比較」)その2

 下北沢の周辺地域では、住居表示制によって、梅丘と代沢という新たに独立した町名が誕生したことが判ります。また、これに伴い、下代田町という町名もなくなります。
 そのほか、世田谷区の地域では、千歳台という町名が新たに独立(廻沢町という地名がなくなる)したほか、桜上水や駒沢公園といった地名も新たに独立した町名のようです。

 世田谷区では、昭和39年より、北沢一丁目~五丁目・代沢一丁目~五丁目辺りから順次に開始され、昭和46年までに、瀬田一丁目~五丁目・祖師谷一丁目~六丁目・玉川台一丁目~二丁目・千歳台一丁目~六丁目・用賀一丁目~四丁目を完了し、未実施区域はないとのことですが、実に7年もの時間を要して行われていたわけです。

2011年6月23日木曜日

下北沢 地図 情報 昭和15年頃の地図(古地図)

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 世田谷区・下北沢の古い地図(昭和15年頃の昔の地図)

 ようやく、東京都と地図上に表記されるのを読み取れるのが、この年代の頃です。世田谷区の北沢(北澤)に関してのみいえば、既に北澤一丁目・二丁目・三丁目・四丁目・五丁目の記述があり、現在の町界と相違がありません(ただし、代田は一丁目と二丁目しかなく、代沢は存在せず下代田である)。
 鉄道路線も小田急線・井の頭線ともに既に確認できる年代であるものの、駅名の呼称については現在とは一部異なっています。
 ただ、東京府と東京市が廃止され、統合されるように東京都が設置されますが、下北沢周辺の地名に、この時期における変化はなかったようです。

古地図にみる世田谷区と下北沢エリア(昭和15年以降の地図)その1

古地図にみる世田谷区と下北沢エリア(昭和15年以降の地図)その2

 昭和20年(1945年)の東京大空襲直後に作成された都市計画図や戦災焼失区域図など戦争の傷跡を考えずにはいられない地図なども、この年代特有のものといえるでしょう。

2011年6月21日火曜日

下北沢 地図 情報 昭和初期の地図(古地図)

下北沢 情報

 世田谷区・下北沢の古い地図(昭和時代・初期の地図)

 いまだ、東京都が、東京市だった頃の地図をまとめています。地名としては現在の地名をほぼ確認できますが、東京市の世田谷区(世田谷町・駒沢町・玉川村・松沢村の2町2村で「区」が誕生)した際には、下北沢という地名が正式には存在しなくなった時期です。また、梅丘や代沢といった地名も時代的には、もう少し後の地図を見ないと確認できません。
 地図的には、小田急線と井の頭線が確認(駅名などは現在の名称と必ずしも一致していませんが)できるようになり、地名も、北沢一丁目、北沢二丁目、北沢三丁目、北沢四丁目、北沢五丁目、下代田町(以後、正式にはなくなる地名)、代田一丁目、代田二丁目、大原町、羽根木町、松原町四丁目などが確認できます。

古地図にみる世田谷区と下北沢(昭和初期の地図)その1

古地図にみる世田谷区と下北沢(昭和初期の地図)その2

古地図にみる世田谷区と下北沢(昭和初期の地図)その3

 明治から昭和にかけての地図を比較すると、村が町になっていく様子や、鉄道路線が整備されていく様子が確認できます。この年代頃の地図が描画的には見比べて変化を読み取る箇所が多い頃と思います。その意味でも面白いというか興味深い変遷をみてとれます。

2011年6月20日月曜日

下北沢 地図 情報 明治時代・大正時代の絵図(古地図)

下北沢 情報

 世田谷区・下北沢の古い地図(明治時代と大正時代の地図)

 下北沢(下北澤)や、世田谷・代田・若林・松原・太子堂などの地名は、比較的に古い年代の地図にも、その地名を多く確認できますが、むろん、近代(明治時代・大正時代)の地図においても地名を確認できます。当時の地図を参照しながら地名の変遷をまとめていますので紹介します。

古地図にみる世田谷区の下北沢(明治・大正の地図)その1

古地図にみる世田谷区の下北沢(明治・大正の地図)その2

古地図にみる世田谷区の下北沢(明治・大正の地図)その3

古地図にみる世田谷区の下北沢(明治・大正の地図)その4

 下北沢の周辺の地名は、下北沢のほか、薩摩、下北沢西、新屋敷、下山谷、新屋敷という地名も定着していたことが判ります。
 当時は、いまだ、「村」であり、世田谷村の大字や字として下北沢付近の地名が呼称されていたようです。したがって、世田谷村大字下北沢といった名称であったことが判ります。現在、下北沢という正式な地名は存在しませんが、過去には下北沢という地名があり、明治や大正の頃は、北沢何丁目という括りもなく、大字下北沢という地名が正式なものとして存在していたということです。

2011年6月19日日曜日

下北沢 地図 情報 江戸時代の絵図(古地図)

下北沢 情報

 世田谷区・下北沢の古い地図(江戸時代の絵図)

 下北沢(下北澤)や、代田・若林・松原・太子堂などの地名は古地図にも、その地名をより多く確認できます。1800年頃以降の江戸時代の絵図を参照して地名の変遷などがまとめられていますので紹介します。

古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その1

古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その2

古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その3

古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その4

古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その5

古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その6

古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その7

 江戸時代においても、律令制の名残は存在し、道国郡という分類で地名を把握していたようです。世田谷区・下北沢の辺りは、東海道・武蔵国・荏原郡にある世田谷領の下北沢村という位置づけになります。

 武蔵国(現東京都・現埼玉県)の地名は、「日本書紀」に初見され、奈良時代末期の「万葉集」には「牟射志」という表記もみられるようです。

 荏原郡という地名も「万葉集」に見られるほど古いもので、平安期の律令制を定めた「延喜式」や、当時の辞書にあたる「和名抄」によれば、武蔵国は、国府(現府中市)のあった「多磨郡」のほか、橘樹郡、荏原郡、豊島郡、足立郡など二十一郡からなり、荏原郡には蒲田・田本・満田・荏原・覚志・御田・木田・桜田・駅家の九郷があったとされています。
 ただし、各郷には諸説あり必ずしも明確になっていない(現世田谷区・世田谷の辺りは、覚志郷に属していたとされているも郡司以下の所在地などについて通説とされるものがないようである)。

 よって、世田谷という地名のルーツとしては、むしろ、多磨郡・勢多郷にあるとし、これが世田ヶ谷に変質したとみる説も有力なようである。
 多磨郡は平安期から狛江の地名が確認でき、これが以後、鎌倉期の木田見に、江戸時代の喜多見に推移していったと思われる(この地域も後に世田谷区の一部となる、また多磨郡・勢多郷が、多磨郡・世田ヶ谷になり、さらに、その後の荏原郡・世田谷領・瀬田村の起源となっているという見解もあるようです)。

 大化の改新以降の武蔵国の中心は国府がある現府中であり、多摩川という水利のある地域の方が人々が生活し易い環境にあったと思われる。このため、現在の世田谷区・世田谷が文献で確認できるのは世田谷吉良氏が世田谷城を築城した以降の「鎌倉鶴岡八幡宮古文書(吉良治家寄進状)」、下北沢のほか周辺地域の地名がまとめて文献で確認できるのは、江戸時代になってからの「新編武蔵風土記稿」など比較的に新しい史料となってくるようです。

2011年6月13日月曜日

世田谷区の歴史 その生い立ちから起源を想う その2

世田谷区の歴史(由来・起源)

『世田谷区の歴史 その生い立ちから起源を想う その2』

 世田谷区の歴史から、その生い立ちを見る事で世田谷の起源、ないし、その由来を考えてみます。『世田谷区の歴史 その生い立ちから起源を想う その1』に引き続き、「集落」に着目して考察します。

 「集落」とは、一定の土地に数戸以上の社会的まとまりが形成された住民生活の基本的な地域単位
であり、「地名」の起源を考えるにあたり、これを「対外的に表意・表示」した時期が「何時」なのかを時系列で整理しています。

 まず、その分類を、農耕集落、首長集落、律令集落、荘園集落、開発集落と定義し、本稿その2では、荘園時代以降をとりあげます。

※荘園集落期(平安末期・源平・南北朝・鎌倉期 938-1333年の頃)

 律令制は、延喜式(延喜5年(905年)醍醐天皇の命により藤原時平・忠平らが編纂し、康保4年(967年)施行)により、その格式の完成をみるが、これ以前、天平15年(743年)の墾田永年私財法発布により、私有地が認められ、公地公民制の崩壊が始まったとされています。
 財力のある貴族や大寺院などが農民を使い開墾を行い、私有地を広げていき、これが初期荘園とされています。その後、土地を守る為に「武士」が登場し集落形成にも大きな影響を与えたと考えられます。

 この頃の武士として、平将門の名を歴史上多く確認でき、武蔵国では、源経基が武蔵国介として赴任した、天慶2年(939年)、郡司武蔵武芝と紛争が起き、この調停者として武蔵国へ進出したのが平将門とされています。その後も、後任の武蔵国守とのいさかいに将門が関係し、やがて、その反逆は関東全域に広がっていきました。
 将門は、当時の政治に反感を持つ人達に支持され、下野、上野、武蔵、相模、伊豆、下総、上総、安房の国府を攻め落とし、天慶2年(939年)、上野国の大宝八幡の境内で新皇と名乗りましたが、朝廷から将門追討の命が下り、藤原忠文が征東大将軍に任ぜられ、天慶3年(940年)に戦死します(この追討の副将軍が、源経基で清和源氏の始祖であり、後の世田谷吉良氏は、この支族である)。将門は討たれるものの、律令制的支配の後退と武士の台頭を示す出来事といえるでしょう。
 
 また、この頃、徴税対象が人から土地に代わり、「名田」単位に編成され、これを請作する農民を田堵といい、有力な大名田堵、さらに力をつけた開発領主が現れます。
 開発領主は、境界などを巡って他の開発領主などと紛争が起こることも多く、より権威のある中央の有力貴族や有力寺社へ開発田地を寄進し(寄進型荘園)、支配・管理権を確保していきます。
 さらに、中央の下級貴族が地方へ下向した際に、自ら(開発領主)よりも身分の高い武士貴族と主従関係を結ぶことにより、荘園を巡る紛争解決に役立てようとした結果、武士に転身する開発領主も少なくなかったようです。この主従関係を繰り返し、徐々に、より大きな武士団が形成されていき(秩父党、横山党、武蔵七党など)、中央よりも地方が勢力をもつようになります。寄進型荘園は、延久の荘園整理令が発せられた11世紀後半から全国各地へ本格的に広まってゆき、平安時代末期にかけて最盛期を迎えます。

 ここに、土地を開墾した集落があり、よって私有地起源の「荘園集落」と分類する。

 とくに、「住民生活の基本的な地域単位」だけの集落でなく、その境界などを「対外的に表意・表示」する必要があり、これに「名称を付与」することが生じたものと思われる(まさに、地名を含む当該土地の起源があると解釈できる)。この頃、郡以下の細区分レベルで、より多くの地名が発生したと推定される。

 ただ、荘園発生の経緯からして小荘園が大荘園に飲み込まれる過程を繰り返すため、「地名」として定着するには一定の時間が必要だったと思われます。

 世田谷周辺に荘園があって、この記録が地名として何かの形で確認できる「時期」こそが原始的発生時と推定されるものの、世田谷という地名の起源につながるとする通説には至っていないようです。

 なお、世田谷は「菅刈」の荘園であることを示す、菅刈庄の一部に属したとされている。10世紀の初めごろに作られた「倭名抄」によると、大化の改新以降の菅刈の地域は東海道・武蔵国・荏原郡・覚々志(かがし)郷に属していたと考えられる。
 また、江戸初期の「新編武蔵風土記稿」によると、現在の目黒区の西半分と世田谷区の東半分にかけての地域を「菅苅荘」「菅苅庄」と呼んだとある。下北澤村の記載箇所にも菅苅庄の旨が確認できる。
 このように、菅刈庄という荘園があり、その記録はあるものの、これが後の世田谷という地名にどう変質したのかまでは究明されていないようである。

 ちなみに、世田谷区にはこのほか、給田や飛田給といった荘園領主が荘官や地頭に給料として支給した田を意味するとされる荘園に由来するであろう地名も実在する(年代として何時頃が起源かは不明)。

 結論的には、平安末期から源平時代を経て鎌倉末期に至る頃には、世田谷の起源が発生していたものと推定していますが、「何時」かを示す決定的な根拠がありません。

 ただし、承平年間(931-938年)に編纂された「和名抄」に、多摩郡・勢多郷の地名が確認されていること(荏原郡ではなかったようです)。
 および、鎌倉期には、武蔵国木田見郷(現喜多見一帯)が江戸氏一族・木田見氏の領地であったことが、「熊谷家文書」が確認されており、この文書に、木田見郷の領地を巡って熊谷氏との間に起こした相論に関する文書が含まれ、その初見が、文永11年(1274年)のものと確認されていること(区内の土地領有関係を示す最も古い文書とされる)。
 さらに、吉良氏が治家の鎌倉鶴岡八幡宮にあてた寄進状から、永和2年(1376年)の段階で、既に吉良氏の領地が世田谷郷内にあったことが確認されていること。
 そして、貞治5年(1366年)、吉良治家が世田谷郷を与えられたとされる「文献不明」こと、および「相模文書」に、永徳2年(1382年)の平義景打渡状があり、武蔵国荏原郡世田郷(世田左衛門入道跡)とあること(ただし、世田氏なる人物が吉良氏の関係か否かを文献で確認できないので、この見解は少数説とみてよい)。

 以上の4点をもって、938年以降-1376年以前において、勢多郷から世田谷郷という地名が変質(もしくは発生)した時期があり、これを、地名起源の一定期間とでも位置づけることは可能と思う、おおむね11世紀と結論づけることとする。

 ただし、この結論づけにも、やや異論を挟む余地がある。なぜなら、多磨郡・世田ヶ谷領に変質したのが勢多郷であり、荏原郡・世田谷領は、これとは別に原始的発生ともいうべきかやや唐突に表意され始めたように思われるからである。
 したがって、この二つを別の起源と捉えるのであれば、吉良治家が世田谷郷を与えられたとされる、貞治5年(1366年)の頃に、与えられた土地を「世田谷郷」とネーミングしたかのにように解釈するほうが自然である。とするならば、14世紀であり、荘園期に起源があるとするには無理があるといえる。

 よって、多磨郡・世田ヶ谷領も荏原郡・世田谷領も同じ現在の世田谷区であり、広義の世田谷の起源と捉えるなら、荘園時代の11世紀頃に地名の変質的起源があったものと解釈できる。
 他方、多磨郡・世田ヶ谷領と荏原郡・世田谷領とは別の生い立ちがあり、荏原郡・世田谷領を狭義の世田谷の起源と捉えるなら、吉良家が世田谷郷を与えられたとされる14世紀頃に地名の発生的起源があったものと解釈できる。
 後者の狭義説によれば、後述の開発集落期に分類するのが妥当と思われる。 

※開発集落期(室町・戦国・江戸)

 永和2年(1376年)以降、既に世田谷郷が存在し、世田谷の起源も既にあるものと考えてよいわけですが、この開発集落期も同様に分類します。この年代以降は、世田谷吉良氏の歴史ともいえそうです(あるいは、吉良家に世田谷領が与えられた、もしくは世田谷城が築城された頃が、まさに世田谷の起源であると狭義にとらえるべきかもしれません)。

 吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、世田谷吉良氏はその庶流、足利義継を祖とし、その子・経氏の時、吉良姓を名乗ったと伝えられる。
 吉良治家は足利将軍家の「御一家」として鎌倉公方に仕えることになり、世田谷と蒔田(現横浜市)にその本拠を置いたので、世田谷御所あるいは蒔田殿と称された。
 世田谷城を構築した時期は不明であるが、応永年間(1394-1426年)の頃、居館として整備されたと考えられている。
 
 ちなみに、吉良氏の格式を知るものとして、享徳3年(1454年)に選述された「殿中以下年中行事」があり、ここに、鎌倉府では公方様が鎌倉の主(最高の地位)であり、次ぎは管領であり、その次ぎは「御一家」であると記されている。吉良氏はこの「御一家」中に列して厚く遇されていた。
 戦国武将としての側面は、文明20年(1480年)「太田道灌状」から読むことができ、扇谷上杉氏と姻戚関係にある吉良成高は、扇谷上杉氏の重臣である太田道灌の協力者として、江戸城内に在城し督戦、そして、勝利を得たこと感謝された旨が記されている。
 北条早雲が小田原に城を構えて以来、関八州に絶大な勢力を誇っていた後北条氏(小田原北条氏)は世田谷吉良氏が将軍家足利氏の一族であることを重視し平和的に懐柔しようと考えた。すなわち、戦国期の吉良氏は吉良成高の軍事行動以外、史料の上で合戦に参加したという微証がなく、吉良氏は、戦国大名でありながら戦場に臨まない武将であった。つまり、後北条氏は、吉良氏が「足利御一家衆」であることを利用し、あえて滅ぼさず、吉良氏以外の武士団に対して、足利御一家衆の親戚であることを誇示して、後北条氏の家格を高めることに利用したのである。
 
 後北条氏は領土の拡張に伴って、要所要所に支城を配置し、その領国体制を固めていった。その中でも、特に重要な拠点であった江戸と小机(現横浜市)を結ぶ位置にある吉良氏の本拠地・世田谷は、後北条氏の注目することとなったのであろうか、後北条氏四代氏政は天正6年(1578年)、世田谷に新たに宿場(世田谷新宿)を設け、楽市を開いた、その目的は、軍事・政治上必要な伝馬の確保にあり、そのためには宿場の繁栄が必要不可欠であった。こうして、世田谷に楽市が開かれたのである。

 その後、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の私戦を禁止した惣無事令に背いたとして、小田原征伐を招き、後北条氏は滅亡することとなる。これに伴い、世田谷城主・吉良氏朝は、隠居を余儀なくされた。また、当時、吉良・後北条両家に仕えていた江戸氏の末裔・江戸勝重も、秀吉の軍勢と戦ったが、小田原落城の後、喜多見に潜伏することとなった。一方、後北条氏に代わって関東に入国した徳川家康は戦役の後、関東各地に潜居していた旧家・名族の者たちを家臣に取り立て、その優遇策を図った。吉良氏朝の子・頼久は、天正19年(1591年)、領地を与えられ、江戸勝重も、文禄元年(1592年)に、旧領・喜多見村を安堵されている。家康の家臣となった頼久は吉良姓を名乗ることをやめ、蒔田と改姓したが、のち吉良姓に復した。また、江戸勝重も、家康の新しい居城の地・江戸をその姓とすることをはばかって喜多見と改姓した。その後、喜多見氏は代々江戸幕府の要職に就き、ついには二万石の大名となったが、元禄2年(1689年)、刃傷事件により御家断絶となっている。余談ながら、元禄14年、かの刃傷事件(いわゆる赤穂浪士の話)において仇役となった吉良上野介義央の家は西条吉良の流れで、武蔵吉良氏(東条吉良)とは別流である。

 家康が関東に入国すると、世田谷のほとんどの村がその直轄領となり、代官・松風助右衛門の支配下に置かれた。私領としては、喜多見氏・藤川氏らの旗本七人が、喜多見村・深沢村・経堂在家村など都合九か村に給地を与えられたに過ぎなかった。
 寛永年間(1624-1643年)に入ると、大幅な領主替えが行われ、幕府領十五か村(後、二十か村)が井伊家の江戸屋敷賄料として彦根藩領に組み込まれたのをはじめ、十四か村が旗本領に、一か村が増上寺領に変わった。その間、村々においては新田畑の開発が進み、飛躍的に生産力が増した。元禄8年(1695年)には、増大した生産高を把握するために検地が施行され、村高(公定生産高)が確定した。元禄期は近世村落の支配体制が完成した時期であり、この時確定した村高は明治維新まで変更されることはなかった。

 ここに、新田を開墾し用水を開発した集落があり、よって近世起源の「開発集落」と分類する。

 戦国時代以降では、世田谷においても、天分20年(1551年)吉良頼康が大平清九郎に世田谷郷等々力村・小山郷を給与、天分22年(1553年)吉良頼康が旋沢のうち船橋谷等を大平清九郎に給与、弘治3年(1557年)吉良頼康が大平清九郎に大蔵村を給与、天正18年(1590年)豊臣秀吉が世田谷郷十二か村に禁制を出す、寛永10年(1633年)世田谷領十五か村が彦根井伊領となる、慶安4年(1651年)宇奈根・横根・太子堂・馬引沢の四か村が井伊領となる、などの記録が多く確認できます。

 また、「新編武蔵風土記稿」などによる文献も多くなり、世田谷区の各地で新田開墾・土地開発がなされたことが容易に推定できます。
 代田村では、天正18年(1590年)頃から、若林村では、正保年間(1644年)から元禄年間(1688年)の頃から、松原村では、元禄年間(1688年)の頃から、それぞれ開墾されたとされ、下北沢村では、小田原城落城(世田谷城廃城)の天正18年(1590年)頃、吉良家臣・膳場将監により村の開発がなされ原野を開墾、一村落を成したとされています。

 この頃、用水も整備されつつあり、慶長16年(1611年)に六郷用水完成、慶安6年(1653年)に玉川上水開削、慶安11年(1658年)に北沢用水、同12年(1659年)に烏山用水、寛文9年(1669年)に品川用水、享保10年(1725年)に三田用水が、それぞれ出来たとされていることからも、新田開墾が盛んになり、土地の開発が進んだものと思われます。

 この年代までくると、世田谷の起源とみるよりも、世田谷そのものが存在したことが確認できており、起源とする年代ではないことに異論がないものと思われる。

2011年6月12日日曜日

世田谷区の歴史 その生い立ちから起源を想う その1

世田谷区の歴史(由来・起源)

『世田谷区の歴史 その生い立ちから起源を想う その1』

 世田谷区の歴史から、その生い立ちを見る事で世田谷の起源、ないし、その由来を考えてみます。まず、その土地の起源を何にみるかですが、やはり『 人 』であると思います。何かしら一定の組織だった集落に起源があるのではと思います。

 そもそも、「集落」とは、一定の土地に数戸以上の社会的まとまりが形成された、住民生活の基本的な地域単位(あるいは、人が集まって生活している所。人家が集まっている所。村落。地理学で、人間の居住の形態。家屋だけでなく耕地なども含む。また、村落のみならず広義には都市をも含む。)とされています。

 さらにいえば、単に「住民生活の基本的な地域単位」だけでなく、これを「対外的に表意・表示」した時期が、地名を含む当該土地の起源と解釈できるのではないでしょうか(学術的にどのように定義されているか否かは別として)。まさに、この点が問題の所在ともいえ議論のあるところだと思います。

 そこで、集落に着目して生い立ちの歴史をみていきます。まず、時系列的にその分類を、農耕集落、首長集落、律令集落、荘園集落、開発集落とします(正確な分類ではなく便宜上、このように整理しておきます)。はたして、どの集落に世田谷らしきものの起源や由来があったと考えられるのか勝手に想像してみます。

 なお、地名の起源とするには、文献や建物が存在したという実体説によるのか、そこに祠などがあり一定の組織が存在したはずだという実質説によるのかで見解が異なると思いますが、ここでは厳密に区別せずに推測で記述しますので学術的に正確ではない旨をお断りしておきます。

 以下、『ふるさと世田谷を語る』から抜粋された世田谷区のホームページ記載の「地名の由来」にある年表を参照しながら必要箇所を抜粋し、これに、世田谷区の歴史をあわせてみていきます。

※農耕集落期(弥生期 紀元前200年ないし紀元50-200年の頃)

 そもそも、世田谷区の遺跡は、時代的に約3万年前の石器製作跡から近世の大名陣屋に至るまで、ほぼ全時代を網羅している。特に水利に恵まれた多摩川沿いの国分寺崖線上は居住するのに適していたとみえ、多くの遺跡が確認されている。
 弥生期以前では、瀬田遺跡・下山遺跡・留多遺跡の石器製作跡(先土器)、瀬田遺跡の貝塚・諏訪山・桜木遺跡の集落(縄文)、代田円乗院遺跡(弥良後期)などが確認されている。
 集落を地域単位として考えてみた場合、その土地に土着していることが必要と思われるので、農耕による食料生産に基礎を置く社会であって、縄文期以前の狩猟集落とは区別するべきと思われる。

 ここに、原始的農耕を始めた集落があり、よって原初的起源の「農耕集落」と分類する。

 これ以降に支配者階級が存在し始め、「国(くに)」らしきものが形成される過程の中で争いがあり、防備が必要になり、環濠集落が生まれた(代表的なものが吉野ヶ里遺跡)。

 なお、(現在も東京都府中市宮町にある)大國魂神社は、ご祭神、大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)を武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたとされ(この大神は素盞鳴尊すさのおのみことの御子神でむかしこの国土を開拓され、人民に衣食住の道を授け、医薬禁厭等の方法をも教えこの国土を経営された)、その起源は、人皇第十二代景行天皇四十一年(111年)五月五日大神の託宣に依って造られたものです。
 出雲臣天穂日命いづものおみあめのほひのみことの後裔が初めて武蔵国造むさしのくにのみやつこに任ぜられ当社に奉仕してから、代々の国造が奉仕してその祭務を掌られたといわれています。

 なんと、はるか以前の紀元111年より、武蔵の国魂の神のご由緒が伝えられています。

※首長集落(古墳期 約300-600年の頃)

 古墳期の遺跡には、堂ケ谷戸遺跡の環濠集落(古墳前期)、野毛大塚古墳・喜多見稲荷塚古墳(古墳)などが確認されている。
 3世紀半から6世紀末までは、北は東北地方から南は九州地方まで前方後円墳造り続けられた時代とされる。倭国にヤマト王権が成立し王権が強化統一されていった時代で古墳末期に倭国から日本国へ国名を変更した。なお、古墳時代と大和時代はほぼ同時期であるが、古墳後期から末期は広義の飛鳥時代にもあたる。

 国(くに)が形成される過程の争いの中で、大集落が小集落を吸収し、やがて、首長を擁す国(くに)が誕生したものとされ、日本書紀にも地方を支配していた者として国造(くにのみやつこ)なる地方官が登場する。

 ここに、古墳を造るだけの資源(人や技術)がある(もしくは、首長を擁する氏族・豪族といった)集落があり、よって組織的起源の「首長集落」と分類する。

 なお、日本書紀には、534年の武蔵国造の乱として、武蔵国造の座を笠原直使主と同族の小杵が争い、小杵は上毛野国(現群馬県)の小熊に助けを求めますが、朝廷の力を借りた笠原直使主が国造の地位を守り、朝廷に屯倉(朝廷の直轄地として、横渟・橘花・多氷・倉樔の四ヶ所)を献上した旨が記されています(これにより、使主は大和朝廷から武蔵国造であることを認知され、以後、武蔵北部(埼玉古墳群)の力が強くなり、武蔵南部(荏原台古墳群)の力が弱くなったとする説もある)。

 この年代において、「武蔵」という表記がみられるようになったようだ。

※律令集落1(645年大化の改新・701年大宝律令)

 大化の改新により、元号を定め、これまであった国(くに)、郡(こおり)、県(あがた)、県(こおり)などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備し直されました(国郡制度)。
 戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える(班田収授の法) 、公民に税や労役を負担させる制度の改革(租・庸・調)があったとされています。
 なお、「郡」(こおり)と言う用語が用いられるのは、大宝律令制定以降、それ以前は「評」(こおり)を使っていた文書(木簡類)が見つかっていることもあり、以後の一連の改革をもって広義の改革ととらえる説が最近では根強いようです。

 ここに、律令制下の集落があり、よって国だけでなく郡単位起源の「律令集落1」と分類する。

 なお、7世紀後半と推定される「无射志国荏原評」の文字が判別される瓦が、文化財発掘調査で発見されています。「むざしのくにのえばらこおり」と読むことができ、旧武蔵国南東部の地名で律令制下の荏原郡にあたるとされています(「評」は、7世紀半ば頃から施行された国の下位に位置する地方行政組織名で、大宝元年(701年)に施行された大宝令以前の遺跡から出土する木簡等に見られ、大宝令によって「郡」に改められる以前の表記。よって、両者とも「こおり」と読む。)。

 この頃(701年以前に)、武蔵だけでなく、すでに「荏原」とされる表記が確認されているのには驚きます。

※律令集落2(703年武蔵国府以降 奈良時代から平安時代)

 律令制下の武蔵国府ができたのは、大化の改新(645年)以後、律令政治がほぼ完成した大宝律令(701年)が公布された頃とされています。
 この律令制の地方政治の枠組みとしては、日本全国が68カ国に分けられ、国の下に郡、郡の下に里と、行政組織を三区別され、国へは中央の朝廷から国司を派遣し、郡にはその地方の豪族を郡司として任命し、里には里長をおいたようです。

 武蔵国は、4等級の最上位である大国とされ、所属する郡は21郡あったといわれています(荏原郡を含む)。その国府(国衙・国庁)が、大国魂神社参集殿の改築工事にともなう発掘にて、奈良後半以降のものと考えられる南北棟の掘建柱建物址五棟が見つかっています(現在の府中市)。また父・荏・榛・高・入・男の6郡の郡名がみられる文字瓦も検出されました。総勢500人ぐらいの人々が国司の下で働いていたと考えられ以後、荘園の時代まで続いたものとされています(開墾した土地が私有化されて荘園となり、公地公民制が崩壊し、土地を守るために武士が登場する)。

 また、大國魂神社境外末社に武蔵国府八幡宮があり、聖武天皇(724-749年)が一国一社の八幡宮として創立したものと伝えられています。

 さらに、この頃以後には国分寺も建立され、旧武蔵国分寺の創建は、8世紀半ばの750年代末から760年代初と推測されています(敷地は東西8町、南北5町半と推測され、諸国の国分寺のなかでも相当に大きい部類に属する(東大寺が最大で東西南北とも8町)。

 ここに、現代につながる集落の基礎があり、よって国・郡・里という体制的起源の「律令集落2」と分類する。

 ただし、郡司・里長が何処にあったのかは定かでないため、律令集落1・2と区別する積極的な意味はあまりない(ただし、郡レベルなのか、その下位層である郷レベルなのかに年代とあわせて相違があるものとして区別した)。

 なお、大國魂神社は、大國魂大神を景行天皇が大神の託宣に依って武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたとされ(111年)、その後、孝徳天皇(645-654年)の御代に至り、大化の改新のころ、武蔵の国府をこの処に置くようになり、ここを国衙の斎場とし、国司が奉仕して国内の祭務を総轄する所にあてられました。
 また、国司が国内社の奉幣巡拝、又は神事執行等の便により国内諸神を配祀した、これが即ち武蔵総社の起源である(後に本殿の両側に国内著名の神、六所すなわち小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金佐奈大神・杉山大神を奉祀して六所宮とも称せられるようになった)。とされており、平安時代になると、大国魂神社は武蔵総社として、武蔵国で筆頭の神社となりました。

 このように、国司は中央から派遣され、絶大な権限を持ってすべてを司ったとされますが、その国司(武蔵守)は、703年引田祖父、715年大神狛麻呂、806年藤原内麻呂、938年武蔵権守興世王・武蔵介源経基(途中と以後を省略)などの記録があるものの、これ以降、武士が登場する荘園時代には律令体制には破綻がみられたとされています(国衙の存続期間は、出土土器等から8世紀前半から10世紀後半までとみられる)。

 なお、律令制確立に伴い「五畿七道」が設置されたが、畿内以外の国は「道」に属し、同時にそれらの国の国府を結ぶ官道が建設されました。当初、武蔵国は内陸国が属する東山道に属しましたが、相模国に東接する海沿いの国であるため非効率なルート(上野国から武蔵国を経て下野国に移動する行程は来た道を引き返すことになるので)となり、宝亀2年(771年)、東海道に転属となっています。その旨、続日本紀に記録されており、これ以降、国府(現在の府中市)までの「道(どう)」のルートが変更されたため荏原郡の集落形成にも影響があったものと思われます(より活発になったと推定される)。

 また、武蔵国府は、『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に「多麻郡に在り」との記載があり、この平安時代中期に作られた辞書は、承平年間(931-938年)、勤子内親王の求めに応じて源順が編纂したとされています。
 この和名抄に、荏原郡、覚志郷、「勢多郷」の地名があり、この勢多のうちの谷地であったというのと、伊勢神宮の寺社領があり、伊勢田から伊がなくなり勢田になった、あるいは勢多のうちの谷地、「勢多の谷」というのが「せたかい」、「世田ヶ谷」の語源とされる説があります。

 ようやく、「世田谷」らしき起源が確認できる年代となってきたようです。ただし、この「勢多郷」は荏原郡ではなく多摩郡にあるとの記述のようで、現在の世田谷区・世田谷の起源とは異なるようにも思われます。

 また、このずっと後の文献ではありますが、新編武蔵風土記稿には、荏原郡世田谷領に世田谷村(現在の世田谷)、瀬田村、太子堂村、若林村、代田村、下北沢村ほかの記述とともに、多磨郡にも世田ヶ谷領があり、ここには、上(下)飛田給村、給田村、烏山村、八幡山村、入間村、喜多見村、大蔵村ほかの記述がみられます。おそらく、さきの「勢多郷」は後者の世田ヶ谷領あたりを指すものと思われます。いずれにしても、現在の世田谷区であるには変わりがないのですが、それぞれ別個の起源があるのではと想像することもできます。

 以後は、『世田谷区の歴史 その生い立ちから起源を想う その2』に続く。

2011年6月5日日曜日

世田谷の歴史など、昔のローカル情報を閲覧できるサイト・ブログ

世田谷区・下北沢という地名の由来をたどってみると

 下北沢という地名の変遷を調べていくと意外なことに気がつきました。それは、下北沢よりも、むしろ、代田若林(あるいは世田谷・松原)といった地名に関する古い情報のほうが比較的に多く散見されることです。ずっと、昔の話ですが、代田・若林ってかなりメジャーな土地だったようです。実際に、200年前の古地図のいくつかを見ても容易に見つけることが可能な地名です(代沢や梅ヶ丘という町名は、ほんの五十年前の地図でさえ確認できない地名です)。

 では、どれだけ古い情報が古文書などの書物で確認できるのでしょう。いくつか、ヒントになりそうな記述を見つけましたので備忘録としてリンクを紹介しておきます。

花見堂地名 1 東京都世田谷区代田
 新編武蔵風土記稿にて、世田谷領に代田村が出てくる。「当村の開墾は、むかし天正18年(1591年)世田ヶ谷の吉良家没落の後、かの家人流浪の身となり、この地に止まり、おのが力にまかせて開墾せしなり」と伝えられるとしている。また、「寛永初年(1624年)まで、ただ7人の農家と寺院一所のみ」としている。
 代田村の小名として花見堂のことを説明していますが、1591年という四百年も前に代田に関する地名が確認されているようです。そういや、代田八幡神社が今年420年例大祭ですが、この1591年ということにも関係がありそうです。
 ただ、ここでの寺院一所のみというのは、円乗院だと思われます(当時は円乗院も代田八幡も同じ敷地というか一筆・一体の土地であったと言われていますが)。

せたかいの由来
 世田谷の地名は、六百年以上前にさかのぼる永和2年(1376年)、吉良治家が鎌倉鶴岡八幡宮に上弦巻半分の地を寄進した古文書(吉良治家寄進状)に出てくる(表記についてはこのほか、「世田ケ谷」、「せたかい」、「せたがや」なども、その後の史料に見受けらる)。
 発音表記の最古と思われるものは、永享11年(1439年)大野七郎息女ひろ.セタカエの太夫僧都の門弟引担那等5ヶ所を10ヵ年の期限で熊野郡那智宿坊竜寿院に売却すとあり,「セタカエ」が見られます。又天文2年(1533年)3月31日付の熊野那智大社文書で、大社を詣でた4名のうちの1人の記載に、「せたかい住 喜村彦五郎」として、「せたかい」が見られます。
 また天文22年(1553年)4月の熊野那智山宿坊証文の中に、「武州わかハやし いしと新左衛門」とあり、「わかハやし」については「世田谷郷若林」に推定されています。
 若林については、1553年という四百五十年も前に若林に関する地名が確認されているようです。古くは若林が世田谷の中心的な町だったのかもしれません。元々、区役所が若林小学校付近にあったことも何か関係しているのでしょうか。

 また、代田本村と若林本村は地理的にもごく近く、この付近が一体として何か機能していたんだろうことが推測されます。

 なお、他の地名についても簡潔にまとめたものがありますので紹介しておきます。

世田谷区の町名の由来
 世田谷区の町名の多くが簡潔に記されていますので参考になります。

世田谷区の地名変遷と住居表示

世田谷区の地名について

 地名の変遷は、江戸末期から明治にかけて、明治から大正と昭和初期にかけてと、変遷がみられますが、昭和初期から中期はあまり変化がないように思われます。やはり、現在の地名と、その前の地名のターニングポイントは住居表示制度にあるようです。

 世田谷区では、昭和39年から昭和46年にかけて実施されていく中で現在の地名や丁目になっていったものと思われます。意外にも、現在の何町目という区分は近時のもので、昭和初期(昭和8年・1933年頃)から中期(昭和30年・1955年)にかけての地図を見ても町名と何丁目という区分に相違がみられません。

 昭和31年頃の地図は、「昭和毎日(東京23区地図 昭和31年発行)」にて容易に確認できますが、昭和初期とほぼ同様であり、現在の世田谷区にある梅ヶ丘や代沢という地名は確認できません。

 現在の町名・丁目区分となるのは、その後の住居表示制が採られる昭和39年頃になります。世田谷区の場合、下代田町と北沢町の一部が代沢に統合されますが、むしろ、世田谷町といった広域な町を分割・独立させるケースの方が多かったようです。この時に、世田谷町の大部分が、梅丘・豪徳寺・桜・桜丘・宮坂に独立されたようです。また、代田一丁目・二丁目が1丁目から6丁目に細分化されたように整理された町も少なくないと思われます。
 これらについては、「23区住居表示の実施状況(目黒区・大田区・世田谷区)」にて簡潔にまとめられています。

 そして、昭和46年以降は変遷がなく現在とほぼ同様と思われるため、上記の昭和31年頃の地図と、現在の地図を比較すれば近時の地名変遷は比較的に容易に確認できるものと思われます。

2011年6月3日金曜日

世田谷区の地名変遷の歴史

世田谷区の地名変遷について

 世田谷区と下北沢に関する古い地図をみると、時代毎に地名に変遷がみられます。とくに、明治から大正、そして昭和初期にかけて細かく違いがあるようです。



 これに関しては、「近代世田谷の地名変更の歴史概要」、「世田谷区の誕生と、地名の由来」にて簡潔にまとめられていますので参考になります。
 ここではザックリと理解するために更に簡単にまとめてみます(おおまかに整理して全体像を把握してみますので細かい部分には間違いがあるかもしれません)。

江戸時代の地名
 武蔵国・荏原郡・下北澤村

 江戸時代末期、世田谷には42村が存在したようです。

明治4年(廃藩置県)
 東京府・荏原郡・下北沢村

 1871年の廃藩置県により現在の世田谷区のうち、東部の村は東京府荏原郡(下北沢村を含む)に、西部の村は神奈川県北多摩郡に属した(その後、明治6年には、東京府・第七大区・第六小区・下北沢村とされた時期もあるようです)。

明治22年(東京府管轄改正)
 東京府・荏原郡・世田谷村・大字下北沢

 1889年の東京府管轄改正の市町村制施行に伴い、荏原郡の村は世田ヶ谷村・駒沢村・松沢村・玉川村に、北多摩郡の村は砧村・千歳村に統合された。1893年には 三多摩(北多摩郡砧村・千歳村を含む)が神奈川県より東京府に編入された。
 これにより複数の村を合併したが、以前の村名はおおむね大字として残り、世田谷村は8つの大字を含むことになった(世田ヶ谷、下北沢、代田、経堂在家、若林、太子堂、三宿、池尻)。

大正12年(一部郡制を廃止・町に昇格)
 東京府・荏原郡・世田谷町・(大字)下北沢

 1923年に村から町へ名称が変更した(いまだ、大字など下位区分があったと思われる)。

昭和7年(東京市新区制 大東京35区)
 東京市・世田谷区・世田谷町・北沢何町目

 1932年の東京市区域拡張(35区制)により世田谷も東京市に所属し、世田谷町・駒沢町・玉川村・松沢村の2町2村で「世田谷区」が誕生(郡制もなくなる)。さらに、1936年(昭和11)には千歳・砧村の2村が世田谷区に編入され、現在の世田谷区の区域が成立した。
 この頃に、下位区分が大字でなくなり、何丁目をつけるようになったと思われる(これ以降、下北沢という地名が正式な地名でなくなったのではないか)。

昭和18年(東京都制下)
 東京都・世田谷区・(世田谷町)・北沢何町目

 1943年(7月)に東京都制施行。東京府と東京市を廃止し、東京府の存在していた地域に東京都を設置した(現在の東京都は、この東京都制(戦時法制)ではなく、地方自治法に基づいている)。

昭和22年(東京都23区制)
 東京都・世田谷区・北沢何町目

 1947年(3月)に、従来35区を整理し22区としたが、世田谷区は基本的に変化がなかった。
 同年(8月)には板橋区の西部を分けて練馬区とし、ここに現在と同様の23区が成立した。この分割によって世田谷区は当時東京最大の区になった(現在、埋め立ての進む大田区に抜かれて2位となっている)。

昭和42年頃(住居表示制)
 現在の住居表示(住所)と基本的な部分は変らなくなる(従前よりの地名に変更が多い)。

 1962年頃、世田谷区の地名は住居表示の実施にともなって大幅に変更されていきます(昭和37年に公布・施行された「住居表示に関する法律」及び「街区方式による住居表示の実施基準」に基づいて、世田谷区でも条例が制定され、昭和39年から順次実施し、昭和46年には全ての地域で実施されました)。

 住所のつけ方は、「街区方式による住居表示の実施基準」が昭和38年に定められ、この基準に基づき、世田谷区では「世田谷区住居表示実施要綱」を昭和38年10月に定め、これを実施しているようです。

 
 ちなみに、荏原郡・世田谷町(村)の変遷については、「荏原郡世田谷町の変遷(市町村合併など)」、「荏原郡世田谷村の変遷(市町村合併など)」にも市町村合併についてのまとめがあります。