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2011年6月5日日曜日

世田谷の歴史など、昔のローカル情報を閲覧できるサイト・ブログ

世田谷区・下北沢という地名の由来をたどってみると

 下北沢という地名の変遷を調べていくと意外なことに気がつきました。それは、下北沢よりも、むしろ、代田若林(あるいは世田谷・松原)といった地名に関する古い情報のほうが比較的に多く散見されることです。ずっと、昔の話ですが、代田・若林ってかなりメジャーな土地だったようです。実際に、200年前の古地図のいくつかを見ても容易に見つけることが可能な地名です(代沢や梅ヶ丘という町名は、ほんの五十年前の地図でさえ確認できない地名です)。

 では、どれだけ古い情報が古文書などの書物で確認できるのでしょう。いくつか、ヒントになりそうな記述を見つけましたので備忘録としてリンクを紹介しておきます。

花見堂地名 1 東京都世田谷区代田
 新編武蔵風土記稿にて、世田谷領に代田村が出てくる。「当村の開墾は、むかし天正18年(1591年)世田ヶ谷の吉良家没落の後、かの家人流浪の身となり、この地に止まり、おのが力にまかせて開墾せしなり」と伝えられるとしている。また、「寛永初年(1624年)まで、ただ7人の農家と寺院一所のみ」としている。
 代田村の小名として花見堂のことを説明していますが、1591年という四百年も前に代田に関する地名が確認されているようです。そういや、代田八幡神社が今年420年例大祭ですが、この1591年ということにも関係がありそうです。
 ただ、ここでの寺院一所のみというのは、円乗院だと思われます(当時は円乗院も代田八幡も同じ敷地というか一筆・一体の土地であったと言われていますが)。

せたかいの由来
 世田谷の地名は、六百年以上前にさかのぼる永和2年(1376年)、吉良治家が鎌倉鶴岡八幡宮に上弦巻半分の地を寄進した古文書(吉良治家寄進状)に出てくる(表記についてはこのほか、「世田ケ谷」、「せたかい」、「せたがや」なども、その後の史料に見受けらる)。
 発音表記の最古と思われるものは、永享11年(1439年)大野七郎息女ひろ.セタカエの太夫僧都の門弟引担那等5ヶ所を10ヵ年の期限で熊野郡那智宿坊竜寿院に売却すとあり,「セタカエ」が見られます。又天文2年(1533年)3月31日付の熊野那智大社文書で、大社を詣でた4名のうちの1人の記載に、「せたかい住 喜村彦五郎」として、「せたかい」が見られます。
 また天文22年(1553年)4月の熊野那智山宿坊証文の中に、「武州わかハやし いしと新左衛門」とあり、「わかハやし」については「世田谷郷若林」に推定されています。
 若林については、1553年という四百五十年も前に若林に関する地名が確認されているようです。古くは若林が世田谷の中心的な町だったのかもしれません。元々、区役所が若林小学校付近にあったことも何か関係しているのでしょうか。

 また、代田本村と若林本村は地理的にもごく近く、この付近が一体として何か機能していたんだろうことが推測されます。

 なお、他の地名についても簡潔にまとめたものがありますので紹介しておきます。

世田谷区の町名の由来
 世田谷区の町名の多くが簡潔に記されていますので参考になります。