世田谷区の歴史(由来・起源)
『世田谷区の歴史 その生い立ちから起源を想う その2』
世田谷区の歴史から、その生い立ちを見る事で世田谷の起源、ないし、その由来を考えてみます。『
世田谷区の歴史 その生い立ちから起源を想う その1』に引き続き、「集落」に着目して考察します。
「集落」とは、一定の土地に数戸以上の社会的まとまりが形成された住民生活の基本的な地域単位
であり、「地名」の起源を考えるにあたり、これを「対外的に表意・表示」した時期が「何時」なのかを時系列で整理しています。
まず、その分類を、農耕集落、首長集落、律令集落、荘園集落、開発集落と定義し、本稿その2では、荘園時代以降をとりあげます。
※荘園集落期(平安末期・源平・南北朝・鎌倉期 938-1333年の頃)
律令制は、延喜式(延喜5年(905年)醍醐天皇の命により藤原時平・忠平らが編纂し、康保4年(967年)施行)により、その格式の完成をみるが、これ以前、天平15年(743年)の墾田永年私財法発布により、私有地が認められ、公地公民制の崩壊が始まったとされています。
財力のある貴族や大寺院などが農民を使い開墾を行い、私有地を広げていき、これが初期荘園とされています。その後、土地を守る為に「武士」が登場し集落形成にも大きな影響を与えたと考えられます。
この頃の武士として、平将門の名を歴史上多く確認でき、武蔵国では、源経基が武蔵国介として赴任した、天慶2年(939年)、郡司武蔵武芝と紛争が起き、この調停者として武蔵国へ進出したのが平将門とされています。その後も、後任の武蔵国守とのいさかいに将門が関係し、やがて、その反逆は関東全域に広がっていきました。
将門は、当時の政治に反感を持つ人達に支持され、下野、上野、武蔵、相模、伊豆、下総、上総、安房の国府を攻め落とし、天慶2年(939年)、上野国の大宝八幡の境内で新皇と名乗りましたが、朝廷から将門追討の命が下り、藤原忠文が征東大将軍に任ぜられ、天慶3年(940年)に戦死します(この追討の副将軍が、源経基で清和源氏の始祖であり、後の世田谷吉良氏は、この支族である)。将門は討たれるものの、律令制的支配の後退と武士の台頭を示す出来事といえるでしょう。
また、この頃、徴税対象が人から土地に代わり、「名田」単位に編成され、これを請作する農民を田堵といい、有力な大名田堵、さらに力をつけた開発領主が現れます。
開発領主は、境界などを巡って他の開発領主などと紛争が起こることも多く、より権威のある中央の有力貴族や有力寺社へ開発田地を寄進し(寄進型荘園)、支配・管理権を確保していきます。
さらに、中央の下級貴族が地方へ下向した際に、自ら(開発領主)よりも身分の高い武士貴族と主従関係を結ぶことにより、荘園を巡る紛争解決に役立てようとした結果、武士に転身する開発領主も少なくなかったようです。この主従関係を繰り返し、徐々に、より大きな武士団が形成されていき(秩父党、横山党、武蔵七党など)、中央よりも地方が勢力をもつようになります。寄進型荘園は、延久の荘園整理令が発せられた11世紀後半から全国各地へ本格的に広まってゆき、平安時代末期にかけて最盛期を迎えます。
ここに、土地を開墾した集落があり、よって私有地起源の「荘園集落」と分類する。
とくに、「住民生活の基本的な地域単位」だけの集落でなく、その境界などを「対外的に表意・表示」する必要があり、これに「名称を付与」することが生じたものと思われる(まさに、地名を含む当該土地の起源があると解釈できる)。この頃、郡以下の細区分レベルで、より多くの地名が発生したと推定される。
ただ、荘園発生の経緯からして小荘園が大荘園に飲み込まれる過程を繰り返すため、「地名」として定着するには一定の時間が必要だったと思われます。
世田谷周辺に荘園があって、この記録が地名として何かの形で確認できる「時期」こそが原始的発生時と推定されるものの、世田谷という地名の起源につながるとする通説には至っていないようです。
なお、世田谷は「菅刈」の荘園であることを示す、菅刈庄の一部に属したとされている。10世紀の初めごろに作られた「倭名抄」によると、大化の改新以降の菅刈の地域は東海道・武蔵国・荏原郡・覚々志(かがし)郷に属していたと考えられる。
また、江戸初期の「新編武蔵風土記稿」によると、現在の目黒区の西半分と世田谷区の東半分にかけての地域を「菅苅荘」「菅苅庄」と呼んだとある。下北澤村の記載箇所にも菅苅庄の旨が確認できる。
このように、菅刈庄という荘園があり、その記録はあるものの、これが後の世田谷という地名にどう変質したのかまでは究明されていないようである。
ちなみに、世田谷区にはこのほか、給田や飛田給といった荘園領主が荘官や地頭に給料として支給した田を意味するとされる荘園に由来するであろう地名も実在する(年代として何時頃が起源かは不明)。
結論的には、平安末期から源平時代を経て鎌倉末期に至る頃には、世田谷の起源が発生していたものと推定していますが、「何時」かを示す決定的な根拠がありません。
ただし、承平年間(931-938年)に編纂された「和名抄」に、多摩郡・勢多郷の地名が確認されていること(荏原郡ではなかったようです)。
および、鎌倉期には、武蔵国木田見郷(現喜多見一帯)が江戸氏一族・木田見氏の領地であったことが、「熊谷家文書」が確認されており、この文書に、木田見郷の領地を巡って熊谷氏との間に起こした相論に関する文書が含まれ、その初見が、文永11年(1274年)のものと確認されていること(区内の土地領有関係を示す最も古い文書とされる)。
さらに、吉良氏が治家の鎌倉鶴岡八幡宮にあてた寄進状から、永和2年(1376年)の段階で、既に吉良氏の領地が世田谷郷内にあったことが確認されていること。
そして、貞治5年(1366年)、吉良治家が世田谷郷を与えられたとされる「文献不明」こと、および「相模文書」に、永徳2年(1382年)の平義景打渡状があり、武蔵国荏原郡世田郷(世田左衛門入道跡)とあること(ただし、世田氏なる人物が吉良氏の関係か否かを文献で確認できないので、この見解は少数説とみてよい)。
以上の4点をもって、938年以降-1376年以前において、勢多郷から世田谷郷という地名が変質(もしくは発生)した時期があり、これを、地名起源の一定期間とでも位置づけることは可能と思う、おおむね11世紀と結論づけることとする。
ただし、この結論づけにも、やや異論を挟む余地がある。なぜなら、多磨郡・世田ヶ谷領に変質したのが勢多郷であり、荏原郡・世田谷領は、これとは別に原始的発生ともいうべきかやや唐突に表意され始めたように思われるからである。
したがって、この二つを別の起源と捉えるのであれば、吉良治家が世田谷郷を与えられたとされる、貞治5年(1366年)の頃に、与えられた土地を「世田谷郷」とネーミングしたかのにように解釈するほうが自然である。とするならば、14世紀であり、荘園期に起源があるとするには無理があるといえる。
よって、多磨郡・世田ヶ谷領も荏原郡・世田谷領も同じ現在の世田谷区であり、広義の世田谷の起源と捉えるなら、荘園時代の11世紀頃に地名の変質的起源があったものと解釈できる。
他方、多磨郡・世田ヶ谷領と荏原郡・世田谷領とは別の生い立ちがあり、荏原郡・世田谷領を狭義の世田谷の起源と捉えるなら、吉良家が世田谷郷を与えられたとされる14世紀頃に地名の発生的起源があったものと解釈できる。
後者の狭義説によれば、後述の開発集落期に分類するのが妥当と思われる。
※開発集落期(室町・戦国・江戸)
永和2年(1376年)以降、既に世田谷郷が存在し、世田谷の起源も既にあるものと考えてよいわけですが、この開発集落期も同様に分類します。この年代以降は、世田谷吉良氏の歴史ともいえそうです(あるいは、吉良家に世田谷領が与えられた、もしくは世田谷城が築城された頃が、まさに世田谷の起源であると狭義にとらえるべきかもしれません)。
吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、世田谷吉良氏はその庶流、足利義継を祖とし、その子・経氏の時、吉良姓を名乗ったと伝えられる。
吉良治家は足利将軍家の「御一家」として鎌倉公方に仕えることになり、世田谷と蒔田(現横浜市)にその本拠を置いたので、世田谷御所あるいは蒔田殿と称された。
世田谷城を構築した時期は不明であるが、応永年間(1394-1426年)の頃、居館として整備されたと考えられている。
ちなみに、吉良氏の格式を知るものとして、享徳3年(1454年)に選述された「殿中以下年中行事」があり、ここに、鎌倉府では公方様が鎌倉の主(最高の地位)であり、次ぎは管領であり、その次ぎは「御一家」であると記されている。吉良氏はこの「御一家」中に列して厚く遇されていた。
戦国武将としての側面は、文明20年(1480年)「太田道灌状」から読むことができ、扇谷上杉氏と姻戚関係にある吉良成高は、扇谷上杉氏の重臣である太田道灌の協力者として、江戸城内に在城し督戦、そして、勝利を得たこと感謝された旨が記されている。
北条早雲が小田原に城を構えて以来、関八州に絶大な勢力を誇っていた後北条氏(小田原北条氏)は世田谷吉良氏が将軍家足利氏の一族であることを重視し平和的に懐柔しようと考えた。すなわち、戦国期の吉良氏は吉良成高の軍事行動以外、史料の上で合戦に参加したという微証がなく、吉良氏は、戦国大名でありながら戦場に臨まない武将であった。つまり、後北条氏は、吉良氏が「足利御一家衆」であることを利用し、あえて滅ぼさず、吉良氏以外の武士団に対して、足利御一家衆の親戚であることを誇示して、後北条氏の家格を高めることに利用したのである。
後北条氏は領土の拡張に伴って、要所要所に支城を配置し、その領国体制を固めていった。その中でも、特に重要な拠点であった江戸と小机(現横浜市)を結ぶ位置にある吉良氏の本拠地・世田谷は、後北条氏の注目することとなったのであろうか、後北条氏四代氏政は天正6年(1578年)、世田谷に新たに宿場(世田谷新宿)を設け、楽市を開いた、その目的は、軍事・政治上必要な伝馬の確保にあり、そのためには宿場の繁栄が必要不可欠であった。こうして、世田谷に楽市が開かれたのである。
その後、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の私戦を禁止した惣無事令に背いたとして、小田原征伐を招き、後北条氏は滅亡することとなる。これに伴い、世田谷城主・吉良氏朝は、隠居を余儀なくされた。また、当時、吉良・後北条両家に仕えていた江戸氏の末裔・江戸勝重も、秀吉の軍勢と戦ったが、小田原落城の後、喜多見に潜伏することとなった。一方、後北条氏に代わって関東に入国した徳川家康は戦役の後、関東各地に潜居していた旧家・名族の者たちを家臣に取り立て、その優遇策を図った。吉良氏朝の子・頼久は、天正19年(1591年)、領地を与えられ、江戸勝重も、文禄元年(1592年)に、旧領・喜多見村を安堵されている。家康の家臣となった頼久は吉良姓を名乗ることをやめ、蒔田と改姓したが、のち吉良姓に復した。また、江戸勝重も、家康の新しい居城の地・江戸をその姓とすることをはばかって喜多見と改姓した。その後、喜多見氏は代々江戸幕府の要職に就き、ついには二万石の大名となったが、元禄2年(1689年)、刃傷事件により御家断絶となっている。余談ながら、元禄14年、かの刃傷事件(いわゆる赤穂浪士の話)において仇役となった吉良上野介義央の家は西条吉良の流れで、武蔵吉良氏(東条吉良)とは別流である。
家康が関東に入国すると、世田谷のほとんどの村がその直轄領となり、代官・松風助右衛門の支配下に置かれた。私領としては、喜多見氏・藤川氏らの旗本七人が、喜多見村・深沢村・経堂在家村など都合九か村に給地を与えられたに過ぎなかった。
寛永年間(1624-1643年)に入ると、大幅な領主替えが行われ、幕府領十五か村(後、二十か村)が井伊家の江戸屋敷賄料として彦根藩領に組み込まれたのをはじめ、十四か村が旗本領に、一か村が増上寺領に変わった。その間、村々においては新田畑の開発が進み、飛躍的に生産力が増した。元禄8年(1695年)には、増大した生産高を把握するために検地が施行され、村高(公定生産高)が確定した。元禄期は近世村落の支配体制が完成した時期であり、この時確定した村高は明治維新まで変更されることはなかった。
ここに、新田を開墾し用水を開発した集落があり、よって近世起源の「開発集落」と分類する。
戦国時代以降では、世田谷においても、天分20年(1551年)吉良頼康が大平清九郎に世田谷郷等々力村・小山郷を給与、天分22年(1553年)吉良頼康が旋沢のうち船橋谷等を大平清九郎に給与、弘治3年(1557年)吉良頼康が大平清九郎に大蔵村を給与、天正18年(1590年)豊臣秀吉が世田谷郷十二か村に禁制を出す、寛永10年(1633年)世田谷領十五か村が彦根井伊領となる、慶安4年(1651年)宇奈根・横根・太子堂・馬引沢の四か村が井伊領となる、などの記録が多く確認できます。
また、「新編武蔵風土記稿」などによる文献も多くなり、世田谷区の各地で新田開墾・土地開発がなされたことが容易に推定できます。
代田村では、天正18年(1590年)頃から、若林村では、正保年間(1644年)から元禄年間(1688年)の頃から、松原村では、元禄年間(1688年)の頃から、それぞれ開墾されたとされ、下北沢村では、小田原城落城(世田谷城廃城)の天正18年(1590年)頃、吉良家臣・膳場将監により村の開発がなされ原野を開墾、一村落を成したとされています。
この頃、用水も整備されつつあり、慶長16年(1611年)に六郷用水完成、慶安6年(1653年)に玉川上水開削、慶安11年(1658年)に北沢用水、同12年(1659年)に烏山用水、寛文9年(1669年)に品川用水、享保10年(1725年)に三田用水が、それぞれ出来たとされていることからも、新田開墾が盛んになり、土地の開発が進んだものと思われます。
この年代までくると、世田谷の起源とみるよりも、世田谷そのものが存在したことが確認できており、起源とする年代ではないことに異論がないものと思われる。