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2011年6月19日日曜日

下北沢 地図 情報 江戸時代の絵図(古地図)

下北沢 情報

 世田谷区・下北沢の古い地図(江戸時代の絵図)

 下北沢(下北澤)や、代田・若林・松原・太子堂などの地名は古地図にも、その地名をより多く確認できます。1800年頃以降の江戸時代の絵図を参照して地名の変遷などがまとめられていますので紹介します。

古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その1

古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その2

古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その3

古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その4

古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その5

古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その6

古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その7

 江戸時代においても、律令制の名残は存在し、道国郡という分類で地名を把握していたようです。世田谷区・下北沢の辺りは、東海道・武蔵国・荏原郡にある世田谷領の下北沢村という位置づけになります。

 武蔵国(現東京都・現埼玉県)の地名は、「日本書紀」に初見され、奈良時代末期の「万葉集」には「牟射志」という表記もみられるようです。

 荏原郡という地名も「万葉集」に見られるほど古いもので、平安期の律令制を定めた「延喜式」や、当時の辞書にあたる「和名抄」によれば、武蔵国は、国府(現府中市)のあった「多磨郡」のほか、橘樹郡、荏原郡、豊島郡、足立郡など二十一郡からなり、荏原郡には蒲田・田本・満田・荏原・覚志・御田・木田・桜田・駅家の九郷があったとされています。
 ただし、各郷には諸説あり必ずしも明確になっていない(現世田谷区・世田谷の辺りは、覚志郷に属していたとされているも郡司以下の所在地などについて通説とされるものがないようである)。

 よって、世田谷という地名のルーツとしては、むしろ、多磨郡・勢多郷にあるとし、これが世田ヶ谷に変質したとみる説も有力なようである。
 多磨郡は平安期から狛江の地名が確認でき、これが以後、鎌倉期の木田見に、江戸時代の喜多見に推移していったと思われる(この地域も後に世田谷区の一部となる、また多磨郡・勢多郷が、多磨郡・世田ヶ谷になり、さらに、その後の荏原郡・世田谷領・瀬田村の起源となっているという見解もあるようです)。

 大化の改新以降の武蔵国の中心は国府がある現府中であり、多摩川という水利のある地域の方が人々が生活し易い環境にあったと思われる。このため、現在の世田谷区・世田谷が文献で確認できるのは世田谷吉良氏が世田谷城を築城した以降の「鎌倉鶴岡八幡宮古文書(吉良治家寄進状)」、下北沢のほか周辺地域の地名がまとめて文献で確認できるのは、江戸時代になってからの「新編武蔵風土記稿」など比較的に新しい史料となってくるようです。