世田谷区の歴史(由来・起源)
『世田谷区の歴史 その生い立ちから起源を想う その1』
世田谷区の歴史から、その生い立ちを見る事で世田谷の起源、ないし、その由来を考えてみます。まず、その土地の起源を何にみるかですが、やはり『 人 』であると思います。何かしら一定の組織だった集落に起源があるのではと思います。
そもそも、「集落」とは、一定の土地に数戸以上の社会的まとまりが形成された、住民生活の基本的な地域単位(あるいは、人が集まって生活している所。人家が集まっている所。村落。地理学で、人間の居住の形態。家屋だけでなく耕地なども含む。また、村落のみならず広義には都市をも含む。)とされています。
さらにいえば、単に「住民生活の基本的な地域単位」だけでなく、これを「対外的に表意・表示」した時期が、地名を含む当該土地の起源と解釈できるのではないでしょうか(学術的にどのように定義されているか否かは別として)。まさに、この点が問題の所在ともいえ議論のあるところだと思います。
そこで、集落に着目して生い立ちの歴史をみていきます。まず、時系列的にその分類を、農耕集落、首長集落、律令集落、荘園集落、開発集落とします(正確な分類ではなく便宜上、このように整理しておきます)。はたして、どの集落に世田谷らしきものの起源や由来があったと考えられるのか勝手に想像してみます。
なお、地名の起源とするには、文献や建物が存在したという実体説によるのか、そこに祠などがあり一定の組織が存在したはずだという実質説によるのかで見解が異なると思いますが、ここでは厳密に区別せずに推測で記述しますので学術的に正確ではない旨をお断りしておきます。
以下、『ふるさと世田谷を語る』から抜粋された世田谷区のホームページ記載の「地名の由来」にある年表を参照しながら必要箇所を抜粋し、これに、世田谷区の歴史をあわせてみていきます。
※農耕集落期(弥生期 紀元前200年ないし紀元50-200年の頃)
そもそも、世田谷区の遺跡は、時代的に約3万年前の石器製作跡から近世の大名陣屋に至るまで、ほぼ全時代を網羅している。特に水利に恵まれた多摩川沿いの国分寺崖線上は居住するのに適していたとみえ、多くの遺跡が確認されている。
弥生期以前では、瀬田遺跡・下山遺跡・留多遺跡の石器製作跡(先土器)、瀬田遺跡の貝塚・諏訪山・桜木遺跡の集落(縄文)、代田円乗院遺跡(弥良後期)などが確認されている。
集落を地域単位として考えてみた場合、その土地に土着していることが必要と思われるので、農耕による食料生産に基礎を置く社会であって、縄文期以前の狩猟集落とは区別するべきと思われる。
ここに、原始的農耕を始めた集落があり、よって原初的起源の「農耕集落」と分類する。
これ以降に支配者階級が存在し始め、「国(くに)」らしきものが形成される過程の中で争いがあり、防備が必要になり、環濠集落が生まれた(代表的なものが吉野ヶ里遺跡)。
なお、(現在も東京都府中市宮町にある)大國魂神社は、ご祭神、大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)を武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたとされ(この大神は素盞鳴尊すさのおのみことの御子神でむかしこの国土を開拓され、人民に衣食住の道を授け、医薬禁厭等の方法をも教えこの国土を経営された)、その起源は、人皇第十二代景行天皇四十一年(111年)五月五日大神の託宣に依って造られたものです。
出雲臣天穂日命いづものおみあめのほひのみことの後裔が初めて武蔵国造むさしのくにのみやつこに任ぜられ当社に奉仕してから、代々の国造が奉仕してその祭務を掌られたといわれています。
なんと、はるか以前の紀元111年より、武蔵の国魂の神のご由緒が伝えられています。
※首長集落(古墳期 約300-600年の頃)
古墳期の遺跡には、堂ケ谷戸遺跡の環濠集落(古墳前期)、野毛大塚古墳・喜多見稲荷塚古墳(古墳)などが確認されている。
3世紀半から6世紀末までは、北は東北地方から南は九州地方まで前方後円墳造り続けられた時代とされる。倭国にヤマト王権が成立し王権が強化統一されていった時代で古墳末期に倭国から日本国へ国名を変更した。なお、古墳時代と大和時代はほぼ同時期であるが、古墳後期から末期は広義の飛鳥時代にもあたる。
国(くに)が形成される過程の争いの中で、大集落が小集落を吸収し、やがて、首長を擁す国(くに)が誕生したものとされ、日本書紀にも地方を支配していた者として国造(くにのみやつこ)なる地方官が登場する。
ここに、古墳を造るだけの資源(人や技術)がある(もしくは、首長を擁する氏族・豪族といった)集落があり、よって組織的起源の「首長集落」と分類する。
なお、日本書紀には、534年の武蔵国造の乱として、武蔵国造の座を笠原直使主と同族の小杵が争い、小杵は上毛野国(現群馬県)の小熊に助けを求めますが、朝廷の力を借りた笠原直使主が国造の地位を守り、朝廷に屯倉(朝廷の直轄地として、横渟・橘花・多氷・倉樔の四ヶ所)を献上した旨が記されています(これにより、使主は大和朝廷から武蔵国造であることを認知され、以後、武蔵北部(埼玉古墳群)の力が強くなり、武蔵南部(荏原台古墳群)の力が弱くなったとする説もある)。
この年代において、「武蔵」という表記がみられるようになったようだ。
※律令集落1(645年大化の改新・701年大宝律令)
大化の改新により、元号を定め、これまであった国(くに)、郡(こおり)、県(あがた)、県(こおり)などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備し直されました(国郡制度)。
戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える(班田収授の法) 、公民に税や労役を負担させる制度の改革(租・庸・調)があったとされています。
なお、「郡」(こおり)と言う用語が用いられるのは、大宝律令制定以降、それ以前は「評」(こおり)を使っていた文書(木簡類)が見つかっていることもあり、以後の一連の改革をもって広義の改革ととらえる説が最近では根強いようです。
ここに、律令制下の集落があり、よって国だけでなく郡単位起源の「律令集落1」と分類する。
なお、7世紀後半と推定される「无射志国荏原評」の文字が判別される瓦が、文化財発掘調査で発見されています。「むざしのくにのえばらこおり」と読むことができ、旧武蔵国南東部の地名で律令制下の荏原郡にあたるとされています(「評」は、7世紀半ば頃から施行された国の下位に位置する地方行政組織名で、大宝元年(701年)に施行された大宝令以前の遺跡から出土する木簡等に見られ、大宝令によって「郡」に改められる以前の表記。よって、両者とも「こおり」と読む。)。
この頃(701年以前に)、武蔵だけでなく、すでに「荏原」とされる表記が確認されているのには驚きます。
※律令集落2(703年武蔵国府以降 奈良時代から平安時代)
律令制下の武蔵国府ができたのは、大化の改新(645年)以後、律令政治がほぼ完成した大宝律令(701年)が公布された頃とされています。
この律令制の地方政治の枠組みとしては、日本全国が68カ国に分けられ、国の下に郡、郡の下に里と、行政組織を三区別され、国へは中央の朝廷から国司を派遣し、郡にはその地方の豪族を郡司として任命し、里には里長をおいたようです。
武蔵国は、4等級の最上位である大国とされ、所属する郡は21郡あったといわれています(荏原郡を含む)。その国府(国衙・国庁)が、大国魂神社参集殿の改築工事にともなう発掘にて、奈良後半以降のものと考えられる南北棟の掘建柱建物址五棟が見つかっています(現在の府中市)。また父・荏・榛・高・入・男の6郡の郡名がみられる文字瓦も検出されました。総勢500人ぐらいの人々が国司の下で働いていたと考えられ以後、荘園の時代まで続いたものとされています(開墾した土地が私有化されて荘園となり、公地公民制が崩壊し、土地を守るために武士が登場する)。
また、大國魂神社境外末社に武蔵国府八幡宮があり、聖武天皇(724-749年)が一国一社の八幡宮として創立したものと伝えられています。
さらに、この頃以後には国分寺も建立され、旧武蔵国分寺の創建は、8世紀半ばの750年代末から760年代初と推測されています(敷地は東西8町、南北5町半と推測され、諸国の国分寺のなかでも相当に大きい部類に属する(東大寺が最大で東西南北とも8町)。
ここに、現代につながる集落の基礎があり、よって国・郡・里という体制的起源の「律令集落2」と分類する。
ただし、郡司・里長が何処にあったのかは定かでないため、律令集落1・2と区別する積極的な意味はあまりない(ただし、郡レベルなのか、その下位層である郷レベルなのかに年代とあわせて相違があるものとして区別した)。
なお、大國魂神社は、大國魂大神を景行天皇が大神の託宣に依って武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたとされ(111年)、その後、孝徳天皇(645-654年)の御代に至り、大化の改新のころ、武蔵の国府をこの処に置くようになり、ここを国衙の斎場とし、国司が奉仕して国内の祭務を総轄する所にあてられました。
また、国司が国内社の奉幣巡拝、又は神事執行等の便により国内諸神を配祀した、これが即ち武蔵総社の起源である(後に本殿の両側に国内著名の神、六所すなわち小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金佐奈大神・杉山大神を奉祀して六所宮とも称せられるようになった)。とされており、平安時代になると、大国魂神社は武蔵総社として、武蔵国で筆頭の神社となりました。
このように、国司は中央から派遣され、絶大な権限を持ってすべてを司ったとされますが、その国司(武蔵守)は、703年引田祖父、715年大神狛麻呂、806年藤原内麻呂、938年武蔵権守興世王・武蔵介源経基(途中と以後を省略)などの記録があるものの、これ以降、武士が登場する荘園時代には律令体制には破綻がみられたとされています(国衙の存続期間は、出土土器等から8世紀前半から10世紀後半までとみられる)。
なお、律令制確立に伴い「五畿七道」が設置されたが、畿内以外の国は「道」に属し、同時にそれらの国の国府を結ぶ官道が建設されました。当初、武蔵国は内陸国が属する東山道に属しましたが、相模国に東接する海沿いの国であるため非効率なルート(上野国から武蔵国を経て下野国に移動する行程は来た道を引き返すことになるので)となり、宝亀2年(771年)、東海道に転属となっています。その旨、続日本紀に記録されており、これ以降、国府(現在の府中市)までの「道(どう)」のルートが変更されたため荏原郡の集落形成にも影響があったものと思われます(より活発になったと推定される)。
また、武蔵国府は、『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に「多麻郡に在り」との記載があり、この平安時代中期に作られた辞書は、承平年間(931-938年)、勤子内親王の求めに応じて源順が編纂したとされています。
この和名抄に、荏原郡、覚志郷、「勢多郷」の地名があり、この勢多のうちの谷地であったというのと、伊勢神宮の寺社領があり、伊勢田から伊がなくなり勢田になった、あるいは勢多のうちの谷地、「勢多の谷」というのが「せたかい」、「世田ヶ谷」の語源とされる説があります。
ようやく、「世田谷」らしき起源が確認できる年代となってきたようです。ただし、この「勢多郷」は荏原郡ではなく多摩郡にあるとの記述のようで、現在の世田谷区・世田谷の起源とは異なるようにも思われます。
また、このずっと後の文献ではありますが、新編武蔵風土記稿には、荏原郡世田谷領に世田谷村(現在の世田谷)、瀬田村、太子堂村、若林村、代田村、下北沢村ほかの記述とともに、多磨郡にも世田ヶ谷領があり、ここには、上(下)飛田給村、給田村、烏山村、八幡山村、入間村、喜多見村、大蔵村ほかの記述がみられます。おそらく、さきの「勢多郷」は後者の世田ヶ谷領あたりを指すものと思われます。いずれにしても、現在の世田谷区であるには変わりがないのですが、それぞれ別個の起源があるのではと想像することもできます。
以後は、『世田谷区の歴史 その生い立ちから起源を想う その2』に続く。
カフェ カルディノ オープン
5 年前
