世田谷区と下北沢に関する古い地図をみると、時代毎に地名に変遷がみられます。とくに、明治から大正、そして昭和初期にかけて細かく違いがあるようです。
これに関しては、「近代世田谷の地名変更の歴史概要」、「世田谷区の誕生と、地名の由来」にて簡潔にまとめられていますので参考になります。
ここではザックリと理解するために更に簡単にまとめてみます(おおまかに整理して全体像を把握してみますので細かい部分には間違いがあるかもしれません)。
江戸時代の地名
武蔵国・荏原郡・下北澤村
江戸時代末期、世田谷には42村が存在したようです。
明治4年(廃藩置県)
東京府・荏原郡・下北沢村
1871年の廃藩置県により現在の世田谷区のうち、東部の村は東京府荏原郡(下北沢村を含む)に、西部の村は神奈川県北多摩郡に属した(その後、明治6年には、東京府・第七大区・第六小区・下北沢村とされた時期もあるようです)。
明治22年(東京府管轄改正)
東京府・荏原郡・世田谷村・大字下北沢
1889年の東京府管轄改正の市町村制施行に伴い、荏原郡の村は世田ヶ谷村・駒沢村・松沢村・玉川村に、北多摩郡の村は砧村・千歳村に統合された。1893年には 三多摩(北多摩郡砧村・千歳村を含む)が神奈川県より東京府に編入された。
これにより複数の村を合併したが、以前の村名はおおむね大字として残り、世田谷村は8つの大字を含むことになった(世田ヶ谷、下北沢、代田、経堂在家、若林、太子堂、三宿、池尻)。
大正12年(一部郡制を廃止・町に昇格)
東京府・荏原郡・世田谷町・(大字)下北沢
1923年に村から町へ名称が変更した(いまだ、大字など下位区分があったと思われる)。
昭和7年(東京市新区制 大東京35区)
東京市・世田谷区・世田谷町・北沢何町目
1932年の東京市区域拡張(35区制)により世田谷も東京市に所属し、世田谷町・駒沢町・玉川村・松沢村の2町2村で「世田谷区」が誕生(郡制もなくなる)。さらに、1936年(昭和11)には千歳・砧村の2村が世田谷区に編入され、現在の世田谷区の区域が成立した。
この頃に、下位区分が大字でなくなり、何丁目をつけるようになったと思われる(これ以降、下北沢という地名が正式な地名でなくなったのではないか)。
昭和18年(東京都制下)
東京都・世田谷区・(世田谷町)・北沢何町目
1943年(7月)に東京都制施行。東京府と東京市を廃止し、東京府の存在していた地域に東京都を設置した(現在の東京都は、この東京都制(戦時法制)ではなく、地方自治法に基づいている)。
昭和22年(東京都23区制)
東京都・世田谷区・北沢何町目
1947年(3月)に、従来35区を整理し22区としたが、世田谷区は基本的に変化がなかった。
同年(8月)には板橋区の西部を分けて練馬区とし、ここに現在と同様の23区が成立した。この分割によって世田谷区は当時東京最大の区になった(現在、埋め立ての進む大田区に抜かれて2位となっている)。
昭和42年頃(住居表示制)
現在の住居表示(住所)と基本的な部分は変らなくなる(従前よりの地名に変更が多い)。
1962年頃、世田谷区の地名は住居表示の実施にともなって大幅に変更されていきます(昭和37年に公布・施行された「住居表示に関する法律」及び「街区方式による住居表示の実施基準」に基づいて、世田谷区でも条例が制定され、昭和39年から順次実施し、昭和46年には全ての地域で実施されました)。
住所のつけ方は、「街区方式による住居表示の実施基準」が昭和38年に定められ、この基準に基づき、世田谷区では「世田谷区住居表示実施要綱」を昭和38年10月に定め、これを実施しているようです。
ちなみに、荏原郡・世田谷町(村)の変遷については、「荏原郡世田谷町の変遷(市町村合併など)」、「荏原郡世田谷村の変遷(市町村合併など)」にも市町村合併についてのまとめがあります。
