世田谷区の地名について
地名の変遷は、江戸末期から明治にかけて、明治から大正と昭和初期にかけてと、変遷がみられますが、昭和初期から中期はあまり変化がないように思われます。やはり、現在の地名と、その前の地名のターニングポイントは住居表示制度にあるようです。
世田谷区では、昭和39年から昭和46年にかけて実施されていく中で現在の地名や丁目になっていったものと思われます。意外にも、現在の何町目という区分は近時のもので、昭和初期(昭和8年・1933年頃)から中期(昭和30年・1955年)にかけての地図を見ても町名と何丁目という区分に相違がみられません。
昭和31年頃の地図は、「昭和毎日(東京23区地図 昭和31年発行)」にて容易に確認できますが、昭和初期とほぼ同様であり、現在の世田谷区にある梅ヶ丘や代沢という地名は確認できません。
現在の町名・丁目区分となるのは、その後の住居表示制が採られる昭和39年頃になります。世田谷区の場合、下代田町と北沢町の一部が代沢に統合されますが、むしろ、世田谷町といった広域な町を分割・独立させるケースの方が多かったようです。この時に、世田谷町の大部分が、梅丘・豪徳寺・桜・桜丘・宮坂に独立されたようです。また、代田一丁目・二丁目が1丁目から6丁目に細分化されたように整理された町も少なくないと思われます。
これらについては、「23区住居表示の実施状況(目黒区・大田区・世田谷区)」にて簡潔にまとめられています。
そして、昭和46年以降は変遷がなく現在とほぼ同様と思われるため、上記の昭和31年頃の地図と、現在の地図を比較すれば近時の地名変遷は比較的に容易に確認できるものと思われます。
カフェ カルディノ オープン
5 年前
